「書道史」カテゴリーアーカイブ

書道史を学ぶ 8 甲骨文字と金文

小テスト

すべて硬筆書写検定1級・準1級で実際に出題された問題です。

(問題1)上段の作品の筆者を下段から選んでください。

1 真草千字文   2 孔子廟堂碑      3 書譜

A 虞世南  B 孫過庭  C 智永  D 王羲之

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 『楽毅論』は王羲之の書と伝えられている小楷である。光明皇后の『楽毅論』はこの臨書といわれる。(   )

2 『十七帖』は王羲之の代表作とよばれる書簡集である。(   )

3 『書譜』は王羲之の書いた書論、草書の手本とされている。(   )

正解は最後に掲載します。

◆◆◆◆◆

王羲之以前の時代をみていきます。

さて、「書道史を学ぶ」第2回

 紀元前16~15世紀頃に中国大陸に殷という王朝が起こりました。

と書いたのですが、近年の発掘調査により、殷王朝以前の文明の存在が明らかになっています。この文明が伝承されてきた夏王朝のものかについては、まだはっきりとは確認されていないようです。

※中華人民共和国の歴史学会では夏王朝の遺跡と断定しているようでが、諸外国の歴史学者の間には、断定は尚早との見方も少なからずあるようです。

また、殷王朝に先立つこの文明遺跡からは今のところ文字資料は発見されていません。したがって字や書の歴史は、やはり殷代から始まることになります。

甲骨文字の発見

清王朝末期の1899年、マラリアの持病に苦しめられていた考古学者・王懿栄(おういえい)が旅の薬屋から漢方薬の「龍骨」を求めたところ、骨の小片に文字のようなものが彫り込まれているのを発見しました。

これが発端となり、「龍骨」は考古学上の研究対象とみなされるようになり、広く収集されるようになります。亀の甲羅や牛の肩甲骨(甲骨)であることがわかり、さらには1904年、孫詒譲(そんいじょう)によって、これらの文字が殷代の占卜(せんぼく―占い)に使われたものであることが証明されました。

201605甲骨文字1

亀の腹甲に刻み込まれた甲骨文字

殷墟の発掘

清朝から中華民国にかわって1928年、文字の刻まれた「龍骨」が大量に出土する小屯(しょうとん)という村(河南省安陽市近く)で大々的な発掘調査が開始されました。

20160511殷墟の発掘

長期にわたる発掘作業により、膨大な量の甲骨や墳墓の存在が明らかとなりました。発掘結果は、『史記』などが伝える殷王朝の系図がほぼ歴史的事実であることを示しており、二十世紀最大の考古学的収穫と称えられました。

神意を伝える甲骨文

殷の都は安陽以前にはもっと南の鄭州にあり、そこからも卜いに使った亀の甲羅や獣骨は出てくるのですが、それらには文字が刻まれていません。つまり、都が安陽に移ってからこれらの文字が生まれたことになります。

それは殷王朝後期の武丁の時代でした。王が神意を問い、それを伝え、正しい判断をしたことを記録するために文字が創られました。それにより王権の宗教的権威を高める意図があったものと考えられます。

神との交信手段である文字は、一気に大量に創り出されました。四千数百という字が、ごく短期間のうちに創り出されたといいます。

神と王との交信記録は、毎日のように甲骨に刻まれました。当時すでに筆や墨が存在していたことは確認されているのですが、筆で書くのはあくまで下書きで、刻まれた文字こそが神聖で正式な文字とみなされたようです。

甲骨文の例を少しみてみます。

201605常用字解「王」

「王」はそのシンボルである鉞(まさかり)の象形

『常用字解[第二版]』(白石静・著)より

201605甲骨文十二生肖

甲骨文十二生肖(甲骨文字の十二支)

鼠  牛  虎  兎

龍  蛇  馬  羊

猿  鳥  犬  猪

甲骨文字は直線的で単純な文字も多いのですが、このような絵文字的なものもあり、古代人の世界観が抽象的に表現されています。

発見当初は原始的な象形文字ばかりと思われていましたが、その後、意味を表す部分と音を表す部分が組み合わされた、かなり進化した段階にある文字も見つかっています。

◇◇◇

殷から周へ

稀代の悪女・妲己(だっき)にたぶらかされた殷朝三十代・紂王(ちゅうおう)は政治を顧みず、夜になれば宮殿の池に酒を満たし、庭木に肉をかけて狂宴を催した(酒池肉林)と司馬遷の『史記』は伝えています。

この紂王の代で殷は、周の武王によって滅ぼされます。――紂王の悪政だけが原因で殷が滅んだように言うのはちょっと無理があるんじゃないかと個人的には思っておりますが(^_^; ――殷の滅亡は紀元前1100年頃のことと考えられています。

周は、基本的には殷の文化と技術を継承しましたが、殷が万事を卜辞によって占った宗教国家であったのに対して、周は実質的な力を重んじる政治国家として栄えていきます。

金文の世界

殷・周の時代には、さまざまな目的に応じて多くの青銅器が鋳造されました。

201605殷周の青銅器

殷・周時代の青銅器

これらの青銅器に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字を金文とよびます。

殷代の金文はその多くが図象的なもので、まだまだ象形文字らしさを残していますが、後には文字らしく変化していくとともに、鋳造の由来なども書くようになり、長文化していきます。

201605殷後期金文

殷代後期の金文

甲骨文と文字の構造は似ていますが、粘土で鋳型を造る際に彫り込んでいるため、線は太細の変化に富み、まろやかな書きぶりになっています。

祭祀の文字から政治の文字へ

周が殷を滅ぼしてから、異民族の侵入によって東の洛陽に遷都する紀元前771年までを西周時代とよびます。

西周時代には、殷代のような神権政治は衰退し、甲骨の使用が急激に減っていきました。また、青銅器の用途も、祭祀用から政治儀式用へと変化していきます。金文銘は長くなり、その内容も世俗的な内容の記録が増えてきます。

こうした変化は、文字そのものも変えていきました。文字の背後にあった宗教的象徴性が失われ、線の太さは画一化し、文字としての完成度が上がっていきます。

台北・故宮博物院に所蔵されている散氏盤(さんしばん)は、金文の最も成熟した書風を示しているとされます。

201605散氏盤

散氏盤

201605散氏盤2

数百字に及んで世俗的な出来事に関して記録されている。

周王朝が興って280年後、周は異民族の圧力に屈して洛陽に遷都します。以後を「東周」とよびます。洛陽遷都後も周王朝はさらに550年余り続くのですが、西周時代の統一的秩序は大きく崩れ、天下は群雄割拠の時代に入っていきます。この時代の前半を春秋時代、後半を戦国時代とよんでいます。

次回はその春秋戦国時代から書き始めることにいたします。

それではまた(^^)/

◆◆◆◆◆

小テスト解答

(問題1) 

  1. 真草千字文 ―― C 智永
  2. 孔子廟堂碑 ―― A 虞世南
  3. 書譜 ―― B 孫過庭

(問題2) 

  1. (   ○  )
  2. (   ○  )
  3. (   X    )

書道史を学ぶ 7 王羲之(5) なぜ”書聖”とよばれるのか

小テスト

すべて硬筆書写検定1級・準1級で実際に出題された問題です。

(問題1)上段の作品の筆者を下段から選んでください。

1 十七帖   2 雁塔聖教序  3  集王聖教序

A 欧陽詢  B 褚遂良  C 王羲之  D 虞世南

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 王羲之が書いた『十七帖』は十七通の手紙を収録したものである。(   )

2 高野切は古今集を書写した巻子本の断簡で、その一部が高野山にあったので、この名がある。(   )

3 文字は線で構成され、その線の質を論ずる時は、線質という。(   )

正解は最後に掲載します。

◆◆◆◆◆

これまで四回にわたって王羲之の代表的な書跡をみてきたわけですが、ここまで読まれて、素直な疑問として「王羲之の書は何がそんなにすごいの?」と思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

かく言う私も、高校の書道の時間に王羲之という名前やその作品にふれて以来、書道史上とても重要な人物なんだという認識はあったものの、じゃあ実際のところ何がどうすごいのか――についてはよくわからずにおりました。傑作といわれる『蘭亭序』などをみても、正直言ってその価値はよくわからずにいたのです。

201605『蘭亭序』定武本

『蘭亭序』定武本

これが時代を超えて大絶賛され続けるほど上手な字なのだろうか?というのが偽らざる気持ちでした。これに比べたら――、

201605狩田巻山先生行書

『書道精習講座2 行書精習』(狩田巻山先生・著)より

こういう現代の行書の方が、私にはより立派で美しくみえる……のですけれども、それはやはり、自分の鑑賞眼が未熟だからなのでしょうか???

書道もペン字もやらないのに、長い間そんな漠たる疑問を胸に抱いていたのでした。そしてあるとき、書店でこんな雑誌を見かけました。

201605『芸術新潮』199810『芸術新潮』平成11年(1998)10月号

ぱらぱらと立ち読みしてみると、王羲之が「書聖」とよばれ、中国では勿論、わが国でも尊敬されてきたその理由を、書家の石川九楊先生がじっくり語られていました。

しばらくの立ち読みの後、私はこの雑誌を持ってレジに向かいました。当時は書道にそんなに興味があったわけではないのですが、書画の鑑賞眼ぐらいは持ちたいものだと漠然と考えていたものですから、こういう雑誌を買って読むことがたまにあったのです。

この特集で、九楊先生はこうおっしゃっています。

「”書”の世界におきた大革命が王羲之という一人の人物に仮託され、革命のシンボルとして崇められるようになった。しかも、王羲之はそこにとどまらず、この革命からさらに一歩を踏み出した。ここから真の意味での”書”が始まるのです。王羲之とは、”書”の『原点』や”書”の『原郷』(パトリ)を象徴する存在であり、それゆえにこそ、”書聖”と呼ばれるようになったと私は考えています。」(47頁)

『芸術新潮』のこの特集を読んで私はこう思いました。「王羲之という人は、漫画の世界でいえば手塚治虫みたいな人なんだな」

◇◇◇

手塚治虫は「漫画の神様」と呼ばれています。なぜそう呼ばれるのでしょうか。これを見てください。

201605『新宝島』冒頭

『新宝島』(手塚治虫・著)

昭和22年(1947)に発行されたこの漫画は、当時の漫画少年たちに衝撃を与えました。

進化著しい最近の漫画を読み慣れている若い方には、この漫画の何がすごいのかがよくわからないかもしれませんね。それを知るには、手塚治虫以前の漫画をみてみる必要があるでしょう。

201605のらくろ

『のらくろ』(田河水泡・著)

『のらくろ』は、昭和6年(1931)から16年(1941)まで『少年倶楽部』という雑誌に連載された大人気漫画です。

比較して一目瞭然なのは手塚作品には「動き」があるということですね。『新宝島』を初めてみた少年読者たちは「絵が動いている!」と衝撃を受けたといいます。

それまでは劇場の舞台を観ているような固定的な構図が当たり前だった漫画が、映画のようにダイナミックに場面が動いていくものに進化した瞬間でした。

ただ、最近の研究によれば戦前の漫画にも動きを表現しようとした構図はときに見られるとか。手塚治虫以外にも、動きのある表現を志向した漫画家はいたようです。

しかし、『新宝島』のような完成度で読者にそれを伝えた漫画家は他にいなかったようで、手塚治虫は漫画の革命者と認識されるようになります。その後も精力的に作品を発表し続け、長年にわたって日本の漫画界の牽引役を果たしてきました。わが国を漫画・アニメ大国に成長させた最大の功労者といえるでしょう。

そのような意味において手塚治虫は「漫画の神様」と呼ばれています。絵やストーリー作りのうまさといった、技術についてのみ評価された結果ではないのです。今では技術的にはもっと上だといえる漫画家もいるでしょう。しかし、その人々も手塚治虫の創りだした表現世界で育った「人間」にすぎず、その世界を創造した手塚治虫はやはり別格の「神様」なのです。

◇◇◇

王羲之が書聖とよばれる所以も、これと同様のことなのだろうと私は理解しました。書聖とよばれるのは、王羲之が史上もっとも書を能くした人物である――というような意味からでなく、書の世界に革命をもたらし、以後の「”書”の『原点』や”書”の『原郷』(パトリ)」となった人物ゆえ、なのですね。

では、王羲之の時代に起きた書の革命とは、どんなことだったのでしょうか。

それを知るために、次回から王羲之以前の書についてみていくことにします。

それではまた(^^)/

◆◆◆◆◆

小テスト解答

(問題1) 

  1. 十七帖 ―― C 王羲之
  2. 雁塔聖教序 ―― B 褚遂良
  3. 集王聖教序() ―― C 王羲之

※ 「集王聖教序」は『集字聖教序』の別名です。

(問題2) 

  1. ( X ) 書き出しが「十七…」であるところからこう名付けられました。
  2. (   ○  )
  3. (   ○  )

書道史を学ぶ 6 書聖 王羲之(4) 十七帖

小テスト

すべて実際に硬筆書写検定1級・準1級で出題された問題です。

(問題1)上段の作品の筆者を下段から選んでください。

1 楽毅論   2 高野切  3  寸松庵色紙

A 唐太宗  B 光明皇后  C 紀貫之  D 小野道風

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 『高野切』は、紀貫之がひとりで、一、二、三種と順次書き上げた。(   )

2 『孔子廟堂碑』は虞世南の書で、唐碑の第一といわれるものである。(   )

3 手本を見て書く練習をして、手本を見ないで習ったとおりに書くことを背臨という。(   )

正解は最後に掲載します。

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きょうは王羲之の草書の書跡をみます。

十七帖』(じゅうしちじょう)

201605『十七帖』

唐の皇帝太宗は王羲之の書を分類整理し、何巻かの巻物に仕上げました。『十七帖』はその一つで、三千通ともいわれる王羲之の尺牘(せきとく―手紙)の中から選ばれた秀作29通が収められています。大半は周憮(しゅうぶ)という友人に宛てた日常的な手紙です。

一通目(写真)の書き出しが「十七日先書……」とあるところから『十七帖』といわれています。

太宗はこの複製を作らせ、官立の最高学府である弘文館の学生に手本として使わせました。現存する刻本は、その複製または臨書から後世になって作られたもので、復刻が重なり真跡の繊細さは失われてしまっているようですが、のちに述べる孫過庭(そんかてい)の『書譜』とともに草書手本の双絶といわれています。

一字一字を区切って書かれています(独草体)が、筆脈はつながり、流れるような筆運びになっています。また、全体に穏やかな書きぶりですが、線の太さや筆圧のかけ方などは変化に富んでおり、洗練された技巧と格調の高さを感じさせます。

◇◇◇

『十七帖』に収められた29通はそれぞれ名がついており、最初に収められたこの手紙は『郗司馬帖』(ちしばじょう)とよばれています。郗というのは王羲之の義弟の名で、司馬は軍事関係の役名です。

短いので全文を読んでみることにします。

 (原文)

  十七日先書 郗司馬未去

  卽日得足下書爲慰  先書以

  具示復數字

 (訓読)

  十七日先書ス 郗司馬未ダ去ラザルニ

  卽日足下ノ書ヲ得テ慰メト爲ス  先書以(すで)ニ

  具(つぶ)サニ示ス 數字ヲ復スルノミ

 (現代語訳)

 十七日に手紙を書いて郗司馬に託しましたが、彼がまだ出発しないうちにあなたからまた手紙をいただき、うれしく思っています。十七日の手紙に詳しく書きましたので、今回はこれでご返事といたします。

――――――

書聖と称えられ、聖人君子のイメージが強い、雲の上の人のような王羲之先生ですが、その手紙を読むと実際の人となりが感じられてぐっと距離感が縮まります。薬について深い知識があったりして相当な知識人であることもわかるのですが、同時に、ごく穏やかで人あたりのいい、好好爺然とした人物像が伝わってきます(^_^

そういえば谷先生も薬剤師をされていましたし、お人柄も王羲之先生に重なるところがあるような(^o^)

◇◇◇

今は検定対策として硬筆で草書を書く稽古を続けており余裕がありませんが、それが一周したらこの『十七帖』や『書譜』で毛筆の臨書稽古もしたいと思っております。

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小テスト解答

(問題1) 

  1. 楽毅論 ―― B 光明皇后
  2. 高野切 ―― C 紀貫之 (
  3. 寸松庵色紙 ―― C 紀貫之

※ 紀貫之筆」の意味は?

『高野切』や『寸松庵色紙』の法帖に「紀貫之筆」とあります。

201505伝紀貫之

これは「紀貫之が書いたと伝えられている」という意味で、実際の筆者かどうかはわかっていないのですが、過去問を見ると「紀貫之」で正解とされています。

(問題2) 

  1. (  X  )
  2. ( ○ )
  3. ( ○ )

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「ゴールデンウィーク特集」的に(笑)、書道史の記事を続けてみました。今後は週一回くらいのペースで続きを書いていきたいと思っています。

それではまた(^^)/

書道史を学ぶ 5 書聖 王羲之(3) 楽毅論

小テスト

すべて実際に硬筆書写検定1級・準1級で出題された問題です。今回から、このブログの常連さんなら答えられそうな問題は含めていくことにします。――ので、「復習テスト」でなく「小テスト」ということに(^^)

(問題1)上段の作品の時代を下段から選んでください。

1 孔子廟堂碑   2 興福寺断碑  3  高野切

A 奈良時代  B 平安時代  C 唐時代  D 六朝時代

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 『興福寺断碑』は王羲之の書として伝えられているが、王羲之の書を集字したものである。(   )

2 五つの書体の総称を「五体」といい、篆・隷・楷・行・仮名をいう。(   )

3 『寸松庵色紙』は、平安時代を代表する名筆であり、『継色紙』、『升色紙』とともに「三色紙」の一つといわれる。(   )

正解は最後に掲載します。

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きょうは王羲之の楷書作品をみます。

王羲之の書跡には行草書の尺牘(せきとく―手紙)が圧倒的に多いのですが、少数ながら楷書の作品も残されています。それらはすべて字粒の小さな楷書で「小楷」(しょうかい)とよばれています。

◇◇◇

黄庭経』(こうていきょう)

201605『黄庭経』

1センチ四方ほどの小さな字で書かれています。養生法を説いた道教の経本で、王羲之が道士に書き与えたものといわれています。

王羲之の筆であることを疑う意見もあるようですが、おおむね信じられています。どのていど王羲之の書の実相を伝えているか判断がむずかしいところもあるものの、王羲之の小楷の名品として古くから重視されてきました。

(小楷作品は文字が小さいため筆写によって細部の表現が相当に変わってしまっている疑いが強い――という意見もあります。)

明代末期の文人で董其昌(とうきしょう)という人は、この作品を「瀟灑古淡」(すっきりと無駄がなく枯れた淡白さがある)と評しております。その筆致には、奥深い味わいが感じられます。

◇◇◇

楽毅論』(がっきろん)

201605『楽毅論』

「楽毅」(がっき)というのは戦国時代の将軍の名です。三国時代、魏の夏候玄(かこう・げん)は、楽毅が敵を攻めて七十もの城を落としながら二つだけ落とせなかったのを世間が非難していることに対し、彼を弁護する文章『楽毅論』を書きました。

王羲之の『楽毅論』は、楷書体の完成度、用筆の妙味の点で一つの最高段階に達したものと評されています。

◇◇◇

光明皇后の『楽毅論』

201605正倉院

東大寺正倉院

光明皇后(701-760)の臨書せられた『楽毅論』が、正倉院に伝わっています。

201605『楽毅論』光明皇后臨

仏教による国家鎮護を願い、東大寺・大仏を建立せられた第45代聖武天皇の皇后であります。聖武天皇とともに奈良時代の能書家としても有名です。

201605光明皇后

光明皇后は仏教に帰依し、貧しい人々のための医療施設(施薬院)や、孤児や困窮者のための救済施設(悲田院)を運営するなど、人々の救済に力を尽くされました。皇后みずから病人の世話をされることもあったと伝えられています。

数え44歳での臨書『楽毅論』は、王羲之の筆遣いの特徴をよくつかみ、「臨書の最高峰」と評されていますが、ヨコ線は細くタテ線はどっしり太いという王羲之書法が強調されており、力強く、気迫に満ちた印象となっています。

光明皇后はその筆跡から「男まさりでいちど決めたことは熱心にやりぬく情熱的な女性」だったのではないかと分析されているようです。『楽毅論』臨書の力強さをみるとさもありなんという気もします(^^)

書道史上の最重要人物・王羲之について、もう少し続きます。次回は草書の作品をみます。

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小テスト解答

(問題1) 

  1. 孔子廟堂碑 ―― C 唐時代
  2. 興福寺断碑 ―― D 六朝時代 (
  3. 高野切 ―― B 平安時代

過去問では書作品の筆者名を答えさせる問題が圧倒的に多く、このように時代を答えさせる問題はこのところ出ていないようですが、書作品の文化的・芸術的価値を理解するためにはやはり時代の流れも意識しないわけにはいかず、自然に覚えることになると思います。

※ 六朝(りくちょう)時代とは

文化史としての時代区分で、3世紀初めから(隋が中国を再び統一する)6世紀末までをこうよびます。六朝とは現在の南京を首都とした呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝をさします。六朝では漢代以来の文化風習が温存され、江南の温和な気候風土を背景に、優雅で華麗な貴族文化が花開きました。これを六朝文化とよびます。

(問題2) 

  1. ( ○ )
  2. ( X  )     X 仮名 →  ○ 草
  3. ( ○ )

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それではまた(^^)/

書道史を学ぶ 4 書聖 王羲之(2) 集字聖教序

復習テスト

すべて実際に硬筆書写検定1級・準1級で出題された問題です。

(問題1)上段の作品の筆者名を下段から選んでください。

1 顔氏家廟碑   2 温泉銘  3  蘭亭序

A 唐太宗  B 顔真卿  C 虞世南  D 王羲之  E 欧陽詢

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 能書家虞世南、欧陽詢、褚遂良、顔真卿は「唐の四大家」と賞賛されている。(   )

2 王羲之が蘭亭で曲水の宴を開き、当日の様子を書いた序文が蘭亭序といわれている。(   )

3 初唐の書を代表する書体の一つは楷書で、それを能くした人物に欧陽詢、虞世南、褚遂良がいる。(   )

正解は最後に掲載します。

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王羲之の書には、「神品」とも評される『蘭亭序』以外にも行書の名品が存在します。

◇◇◇

喪乱帖』(そうらんじょう)

201605『喪乱帖』

王羲之の書に心酔していた唐の太宗は双鉤填墨(そうこうてんぼく)により多くの精巧な模本を作らせました。

双鉤填墨 中国で文字を写し取る方法の一つ。写そうとする文字の上に薄い紙を載せて謄写する。最初に輪郭を線で写し (双鉤)、中に墨を補填 (填墨) する方法をいう。

現存する模本はわずかしかないということですが、この『喪乱帖』は奈良時代に伝えられ、現在我が皇室の御物となっています。王羲之晩年の書の姿を伝える作例で、書道史上のたいへん貴重な資料となっています。

『喪乱帖』は先祖の墓を荒らされたことを歎く尺牘(せきとく)で、その内容から王羲之が官を辞して会稽の逸民となっていた54歳のときの書写と考えられています。

尺牘 手紙のこと。古来中国で一尺四方の牘 (木の札) を書簡に用いたことに 由来する。日本では漢文体の書簡 をさす(和文体のものは「消息」とよばれる)。

◇◇◇

集字聖教序』(しゅうじしょうぎょうじょ)

集王聖教序』(しゅうおうしょうぎょうじょ)とも呼ばれます。

201605『集字聖教序』

聖教序とは

「聖教」というのはお釈迦様の説いた教え、つまり経典のことです。玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)という僧が天竺(インド)まで仏教の経典を探す旅に出て、たいへんな苦労の末に帰国し、持ち帰った仏典を漢訳しました。太宗がそれに書いた序文が、すなわち「聖教序」です。

ちなみに、三蔵の苦難の旅を題材にして作られた物語が、あの『西遊記』です。

201605西遊記

昭和53年(1978)から55年にかけて放送されたドラマ『西遊記

三蔵法師役の夏目雅子さん、美しかったわ~(*´ー`*) 演技力も素晴らしい女優さんでした。本当に惜しい人を亡くしました(合掌)

閑話休題

集字~20年以上の大事業

文章に合わせて古典作品などから字を集めて書跡をつくることを「集字」といいます。

貞観(じょうがん)二十二年(648)、宮中にある王羲之の真跡から文字を写し取る作業が始められました。真跡にない字は文字の部品を集め、拡大したり縮小したりして文字が作られました。碑が完成したのは太宗没後、三代高宗の時代で、実に20年以上の歳月を費やした大事業でありました。

201605『集字聖教序』バランスの悪い字

部品を集めて作字したため、偏と旁のバランスの悪いものもある

◇◇◇

皇帝も崇拝した王羲之の書は唐の人々の憧れの的でしたが、すべてが宮中に集められ、一般人にはほとんど鑑賞する機会がありませんでした。そんな中、こうした集字碑だけはふつうの人々も観ることができました。

『集字聖教序』とともに集字碑の代表作といわれる作品に『興福寺断碑』(こうふくじだんぴ)(721)があります。

201605『興福寺断碑』

興福寺断碑

『集字聖教序』と比べて、結構は穏やかでゆったりした感があります。

「断碑」とは折れた碑という意味です。この碑は明時代に西安近郊で出土したのですが、破損し断片しかなかったのでこの名がつきました。下半分しかないため、文意を取ることはできないということです。

次回は楷書作品をご紹介します。

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復習テスト解答

(問題1) 

  1. 顔氏家廟碑 ―― B 顔真卿
  2. 温泉銘 ―― A 唐太宗
  3. 蘭亭序 ―― D 王羲之

(問題2) 

  1. ( ○ )
  2. ( ○ )
  3. ( ○ )

◆◆◆◆◆

それではまた(^^)/