「書道史」カテゴリーアーカイブ

書道史を学ぶ 13 王羲之の書(1)

ようやく王羲之の再登場です(^^)

三世紀頃には楷・行・草の三書体が出揃い、また書写の材料が木簡・竹簡から紙へと移行し、筆の改良も進んだことで書写環境に大きな変化が起こりました。書が芸術的表現に昇華してゆくための舞台装置が整ってきたのです。

書聖とよばれる空前絶後の天才王羲之が現れたのはこうした時代を背景とする。『書の歴史 中国篇』伏見沖敬・著 筒井茂徳・補)65頁

王羲之が登場する四世紀初め頃の歴史的背景については「書道史を学ぶ 3」ですでにふれているのでそちらをお読みください。

ここからは、王羲之が書聖とよばれている理由を知るために、その書をみてゆくことにします。

――といっても、当然ながら私などには語れる知識も書道経験もありませんので(^_^; ここはあの石川九楊先生に教えを乞うことにいたします。以前にもご紹介した雑誌ですが――、

201605『芸術新潮』199810

『芸術新潮』平成10年(1998)10月号

この雑誌の「王羲之はなぜ`書聖`なのか」という特集で、書家の石川九楊先生が編集部の質門に答える形で、王羲之の書について語ってくださっています。

質疑応答はこんな形で始まります。

Q 王羲之の真の姿をうかがうには、どんな作品を、どのような点に注意しつつ、見ればよいのでしょう?

A 王羲之の書の表現は、後の唐代や宋代の書に比べれば、まだ多分に素朴な、古風(アルカイック)な段階にあるものだったはずです。それは書として、とてもナチュラルな姿をしていたということでもあります。例えば『姨母帖(いぼじょう)』を見て下さい。(後略)」

◇◇◇

では、一緒に『姨母帖』をみながら、九楊先生のお話を伺うことにします。

201608王羲之『姨母帖』

王羲之『姨母帖

若書きの行書の尺牘(せきとく―手紙)です。姨母(いぼ―母の姉妹)が亡くなった悲しみを切々と訴える内容になっています。素朴な感じの書きぶりで、晩年の流麗な書とは様子が違います。

「ひとつひとつの線が、スー、スーと、なだらかに自然に引かれているでしょう」

起筆や収筆にグッと力をこめた線を見慣れた現代人の目には、力みのないごくごく自然な筆運びはかえって新鮮にみえるかもしれません。唐代以前はこのような筆遣いが一般的だったようです。

「転折」は未成熟

「それから『月』、『日』、『自』、『因』などの字の右肩が丸いでしょう」

201608王羲之『姨母帖』の「月」など

私たちは、この右肩のところはクッと筆を押さえてから方向を下に転じる筆遣いを教わりますよね。「転折」といって後世の私たちには当たり前の筆法になっていますが、これも唐代になって完成する技法だそうです。王羲之の時代には、この技法も未成熟でした。

また――、

201608王羲之『姨母帖』の「しんにょう」

「しんにょう」も、何気なくスーッと筆をぬいて収めています。右払いもまだ未成熟な段階にあったことがわかります。

「以上のような表現は、王羲之と同時代の木簡類などにも共通する、古風な筆遣いだと言えるでしょう。」

「一方、王羲之固有の表情として、左右へのふりこのような大きな振幅があげられます。」

201608王羲之『姨母帖』の「之」「羲」

「之」や「羲」の一画目と二画目など、大きく筆が左右に揺れているのがわかります。これは当時の一般的な筆法ではなく、王羲之に特有のものだということです。

◇◇◇

新たな筆法の芽生え

次に、晩年の書をみてみます。

201608王羲之『初月帖』

王羲之『初月帖(しょげつじょう)』

王羲之が官を辞した53歳以降の書といわれています。病で弱っている近況を草書で伝えています。

「『初月帖』もまた、よく古風(アルカイック)な面影をよくつたえていますが、一方で新たな筆法の芽生えも見られます。」

201608王羲之『初月帖』の「至」など

「至」「且」「雖」「慰」

縦画の収筆部分で筆を上げず、そこから筆をクルリと右に回転させて横画につなげています。後世の私たちは行草書で当たり前に目にしている筆遣いですが、こういう筆法は王羲之の時代には存在していませんでした。

「唐時代になって一般化する筆遣いです。王羲之が、新時代への表現へと一歩を踏み出した人であることが判ります。『姨母帖』『初月帖』は、唐時代に製作された双鉤填墨()による複製本で、王羲之行書の実像を照らしだす、鏡のような存在と言えるでしょう。」

 双鉤填墨(そうこうてんぼく)

文字を写し取る 方法の一つ。写そうとする文字の上に薄い紙を載せ、最初に輪郭だけ を線で写し(双鉤) ,中に墨を補填 (填墨) する。 六朝時代 から唐代にかけて広く行われた。

201608双鉤填墨

次回に続きます。

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きょうの自運(幸田文『季節のかたみ』の続きです)

ペン自運「季節のかたみ」BN1-2

20160829ペン自運「季節のかたみ」3

それではまた(^o^)/

書道史を学ぶ 12 王羲之登場前夜

小テスト

すべて硬筆書写検定1級・準1級で実際に出題された問題です。

次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 平安中期の小野道風、藤原佐理、藤原行成を日本三跡という。(   )

2 『風信帖』は、空海から最澄にあてた手紙で円熟の境地に達している作である。(   )

3 『十七帖』は、最初の手紙の出だしが「十七日…」とあり、その名がある。(   )

正解は最後に掲載します。

◆◆◆◆◆

後漢王朝の腐敗、黄巾の乱、そして三国時代へ

1世紀から2世紀の初め、後漢は国力を安定させ、「匈奴」や西域諸国を服属させ、前漢の繁栄を取り戻しました。しかし、その後に外戚と宦官が私利私欲に走り権力闘争を繰り返した結果、政治は不安定化し、王朝の腐敗が進みました。これにともない、多くの農民が貧民化し、社会不安が高まっていきました。

後漢末の184年、新興の宗教団体に扇動された農民たちが大規模な反乱(黄巾の乱)を起こします。全国に拡がった反乱でしたが、後漢王朝はかろうじてこれを鎮圧することに成功しました。

この黄巾の乱を鎮圧する過程で、劉備、曹操、孫堅という、三国志の主人公たちが世に出てくるわけですが、これは書道史のお話なので、そちらには立ち入りません(^_^;

さて、その後も反乱は散発的に起こり、後漢王朝の屋台骨はいよいよぐらついていきます。皇帝の権力は衰える一方です。各地に群雄が並び立ち、覇を競い合うようになります。最終的に、天下は魏・呉・蜀の三国が分立する形勢となっていきます。

201608三国時代地図

さて、ここから王羲之の登場する晋代までの流れは、「書道史を学ぶ 3 書聖 王羲之(1) 蘭亭序」ですでに述べていますので繰り返しません。お話はようやく、そろそろ王羲之の時代に戻ってきます(^^)

◇◇◇

三国時代の重要な墨跡を少しみてみます。

小楷の名品 『薦季直表(せんきちょくひょう)』

魏の鍾繇(しょうよう)は、書道史上の重要人物のひとりです。後漢で高官職を務めたのち、魏で武官の長として、また政治家として重用された人物ですが、同時に能書家としても名高く、楷書・隷書(八分)・行書の三書体にすぐれていました。特に楷書の名手として知られ、王羲之にも影響を与えたといわれています。

201608薦季直表

『薦季直表(せんきちょくひょう)』(221年)

鍾繇の「繇」が画数が多くて見えにくいのと、機種依存文字のようなので、表記を画像にしておきます。

201608ショウヨウ

の墨跡も、王羲之のそれ同様、原本はいっさい残っていないのですが、『薦季直表』はおおらかさ、品格の点で非常にすぐれており、その表現は原本に近いのではないかといわれています。

もうひとつ、みておきます。

201608宣示表

『宣示表(せんじひょう)』

『宣示表』は楷書のルーツといわれており、楷書書法の基本のすべてが含まれているということです。

どちらの墨跡も気品がありながらまろやかな書きぶりで、みているとほっとするような気分になりますね(^_^) 私たちの見慣れている楷書と比べるとだいぶ素朴な感じです。そこがまた何とも味があって素敵です。隷書の雰囲気もちょっとだけ漂っている感じでしょうか。

◇◇◇

書写環境の大変化  竹簡・木簡から紙へ

始皇帝の定めた小篆を簡略化して日常の書体となった隷書でしたが、前漢代にはその典雅な姿態を完成させるとともに、主に改まった用向きにのみ使われるようになります。そして日常書体としては行書や、後述する章草が多用されるようになっていきます。

隷書が活躍した時代は非常に短いものでした。原因は隷書の書法そのものにも内在するようですが、書写材料の変化も大きかったようです。

この時代、書写の材料は竹簡・木簡から紙へと急速に代わっていきました。左手に竹簡や木簡をもって文字どおり上から下へ書いていたものが、机に紙をおき、手前に向かって書くようになると、姿勢も運筆法も変化せざるを得ませんでした。この変化が書体に与えた影響は、まことに大きかったと考えられます。

◇◇◇

章草から草書へ

後漢も末期になると正統な隷書は徐々に崩れはじめ、隷書と楷書の中間的なさまざまな書体があらわれてきます。そして鍾繇の墨跡に見られるような楷書体へと収斂していく一方で、隷書から生まれた別の書体も進化を続けていました。

章草といわれる、隷書の速書きから生まれてきた書体です。

201608章草

章草の単純化はさらに進み、これが後世の草書体につながっていきます。のちの草書の形や筆順には、隷書(あるいは篆書)の速書きである章草に由来するものが多いということです。

◇◇◇

現行の三書体が出そろう

篆・隷書を崩すことで行・草書が生まれました。そして、楷書のルーツといえる書体も現れてきます。この時期には筆や紙の改良が進み、書写環境も大きく変化していきます。これらの変化により、書の芸術的表現の可能性が開いてきます。

そこに、王羲之が登場してきます。

書聖とよばれる空前絶後の天才王羲之が現れたのはこうした時代を背景とする。王羲之はこの行草をとりあげてそれに永遠の生命を与えた人である。行草は今もって王の書法を唯一の典型としている。これは書道史上の最も大きなできごとのひとつである。」

『書の歴史 中国篇』伏見沖敬・著 筒井茂徳・補)65頁

行草書、そして楷書の現行三書体が出揃ったのは三世紀頃のことと言われています。そうした変化ののちに、王羲之という書道史上の最重要人物が登場してきます。四世紀初めのことでありました。

次回から、その王羲之の「仕事」についてみていくことにします。

ようやくって感じですね(^_^)

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きょうの自運(草書かな混じり)

20160811ペン自運「若山牧水」

201608青空とカモメ

※「白鳥(しらとり)」と読んでください。

それではまた(^o^)/

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小テスト解答

  1. (   ○  )
  2. (   ○  )
  3. (   ○  )

書道史を学ぶ 11 隷書の完成

小テスト

すべて硬筆書写検定1級・準1級で実際に出題された問題です。

次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 平安時代男性は主に漢字漢文を用い、女性は平仮名を女手として使用したものである。(   )

2 継色紙・寸松庵色紙・升色紙はいずれも、平安中期の紀貫之筆といわれている。(   )

3 『書譜』は王羲之の書いた書論、草書の手本とされている。(   )

正解は最後に掲載します。

◆◆◆◆◆

実用の書体 隷書

秦という巨大な統一国家の運営のために、役人たちは膨大な書類を作成し続けなければなりませんでした。始皇帝の定めた小篆は曲線的で点画も多く、日常的に用いるには不向きだったため、小篆を直線的な構成に変え、かつ思い切って点画を省略した「実用書体」隷書が考え出されました。

201607始建国(小篆と隷書)

「始建國」 左:小篆 右:隷書(古隷)

※小篆は『角川書道字典』(伏見冲敬・編)から集字しました。

なぜ「隷」書というのか

「隷」には「下僕/下級の召使い」というような意味があります。なぜこの字が書体の名についたのでしょうか。

伝説上、隷書は秦の下級官吏(隷)である程邈(ていばく)という人物が創り出したものとされているためです。獄吏であった程邈は罪を犯して自分自身が投獄されてしまうのですが、獄中で小篆よりも楽に早く書ける書体を考案して奏上、この功により罪を許されて官吏に復帰したといわれています。

◇◇◇

正式な字(刻石)としては小篆、ふだんの書写には隷書――という使い分けが秦代には行われていましたが、漢代に入ると隷書は正式なものと認められるようになり、刻石の文字も小篆から隷書に変わっていきました。

古隷の傑作『萊子侯刻石(らいしこうこくせき)』

201607ライ子侯刻石『萊子侯刻石』(新代)

『萊子侯刻石』は、前漢と後漢の間の新代(紀元8~23年)に刻まれたもので、19世紀初めに山東省で発見されました。

この時代の正書としての刻石はわずかしか残っていないのですが、そのほとんどがこのような「古隷」とよばれる素朴で力強い書風で書かれて(刻まれて)います。

◇◇◇

素朴で力強い「古隷」に対して、このように波磔(はたく――横画の収筆部分の三角状の払い)をもつものを、「八の字」のように左右にのびるところから「八分隷(はっぷんれい)」とよびます。(漢隷とも)

201607八分隷

『隷書のレッスン 1 入門編』(田中東竹・著)より

八分隷の二大傑作 『礼器碑(れいきひ)』と『曹全碑(そうぜんひ)』

201607『礼器碑』

『礼器碑』(後漢後期)

漢代、特にその後期には隷書の完成形である八分隷の名品が数多く生まれています。中でも傑出したものの一つがこの『礼器碑』です。古来、隷書の最高の手本の一つとされています。

中国書道史上の精華

後漢の後期には石碑を建てることが流行しました。数多くの石碑が現在まで伝えられています。石碑は人目につきやすい場所に建てられるため、文や書法には細心の注意が払われており、その高い芸術性は「中国書道史上の精華」と評されています。

漢隷の最後の花 『曹全碑

201607『曹全碑』

『曹全碑』(後漢末期)

数多くの漢碑の中で「神品」と称えられている『曹全碑』は後漢末期の作で、16世紀末に現・陝西省で出土しました。長く土中に埋まっていたため、碑文はその一点一画が鮮明で美しい姿のまま残っています。

後漢末期になると、正式な隷書が徐々に崩れてきて、その後の楷書につながっていくような中間的な書体が増えていきます。その中で、隷書の伝統を完璧に受け継いでいるこの『曹全碑』は、「漢隷の最後の花」と称えられています。

◇◇◇

現代に生きる隷書

隷書は私たちの身のまわりでもけっこう見かけますね(^^)

201607読売新聞ロゴ

201607実践女子大学

201607二玄社

こんなのも(^^)

201607日本酒ラベル

◇◇◇

さて、前漢と後漢、あわせて400年の長きにわたって中国に君臨した漢王朝にも、やがて終わりが訪れます。2世紀の後半には外戚や宦官の勢力が大きくなり、皇帝の権力は衰えていきます。それにともない、各地に群雄が並び立ち、覇を競い合うようになります。そして2世紀の末には「魏・呉・蜀」の三国が分立する形勢となっていきます。

現行書体が出そろう

楷書が現れ、いま私たちが使っている楷行草の三体が出そろったのは3世紀の頃であるといわれています。三国時代(220~)は、書道史的には、楷行草の三体が次第に磨き上げられていった時代、ということができます。

お話はようやく王羲之の時代に近づいていきます(^^)

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きょうの自運

20160718ペン自運「堀口大学」

硬筆書写検定の解答用紙(コピー)に書いています。

それではまた~(^^)/

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小テスト解答

  1. (   ○  )
  2. (   X  )     『継色紙』は伝・小野道風、『升色紙』は伝・藤原行成。
  3. (   X  )  X  王羲之  →  ○ 孫過庭

書道史を学ぶ 10 古代の肉筆

小テスト

すべて硬筆書写検定1級・準1級で実際に出題された問題です。

(問題1)上段の作品の筆者(伝承を含む)を下段から選んでください。

1 書譜   2 粘葉本和漢朗詠集      3 寸松庵色紙

A 紀貫之  B 藤原行成  C 孫過庭  D 智永

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 『十七帖』は王羲之の書いた手紙を十七種類集めた変化に富んだものである。(   )

2 平安初期の嵯峨天皇、空海、最澄は日本三筆と呼ばれた。(   )

3 落款とは落成款識の略で、作品に書名・押印することをいう。(   )

正解は最後に掲載します。

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日常の文字

始皇帝の定めた小篆は曲線的な点画が多く、日常もちいるには書き方の面倒な文字でした。そのため、ふだんの筆記には、小篆を速書きした隷書(れいしょ)や草書が用いられていました。

古代の肉筆資料 木簡・竹簡

紙の発明以前、また紙が発明されてからもしばらくは、中国ではふだんの書写の材料として木の札や、細長い竹を薄く削ったものやを使っていました。これらを木簡竹簡(もっかん・ちっかん)とよんでいます。

木簡・竹簡は20世紀初頭に西部の楼蘭で発見されて以来、各地で大量に出土し続けています。時代は戦国期(前5世紀)から晋代(3世紀)まで700年近くにわたります。

現存最古の『曾侯乙墓竹簡(そうこういつぼちっかん)』は始皇帝が文字を小篆に統一する前のものですが、すでに篆書から隷書へと移行する傾向がみえます。

201606曾侯乙墓竹簡『曾侯乙墓竹簡』

篆書の特徴である左右相称的な構造がすでに崩れ始めている

◇◇◇

秦から漢へ

さて、始皇帝の治政は、その偉大さが称えられる一方で種々の苛政があったのも事実で、軍事活動や土木工事に多数の農民を徴用した結果、農業生産は萎縮し、一家離散や餓死などが相次いだといいます。

農民の不満が高まる中で始皇帝は前210年、行幸先で死去します。死後に擁立された二世皇帝は暗愚な人物で、秦は凋落の一途をたどり、前206年、治世わずか15年であっけなく滅亡してしまいます。

秦末の反乱では多くの群雄が並び興りましたが、秦の滅亡後に二大勢力として天下を争ったのは楚の項羽と漢の劉邦でした。まず項羽が覇権を握りますが、やがて漢の劉邦に滅ぼされます。

前202年、劉邦は都を長安(現・西安)に定めて漢王朝を創始します。

秦以後、もっとも長命だった漢王朝

漢は前202年から紀元220年まで、約400年の長きにわたって中国に君臨し、理想的な王朝と称えられました。そして、漢字・漢文・漢籍というように、王朝名がそのまま中国をあらわす語となりました。

紀元8年に外戚の王莽(おうもう――真ん中の「大」は「犬」と書かれる)が皇帝位を奪って新という王朝を建てます。ここまでを前漢とよびます。新は紀元23年には滅ぼされ、25年に漢は復興、それから三国時代に入る紀元220年までを後漢とよんでいます。

◇◇◇

波磔について

201606曹全碑

これは隷書の碑の中でも「神品」といわれる『曹全碑(そうぜんひ)』(後漢末期)の一字です。このような、横画の収筆部分にみえる三角状の払いを波磔(はたく)とよびます。

波磔のついた隷書を八分隷(はっぷんれい)とよび、波磔のないものを古隷(これい)とよびます。

古来、前漢の隷書は波磔のない古隷であるとされてきましたが、『居延漢簡(きょえんかんかん)』などの発見により、波磔をもつ八分隷は前漢時代にも存在していたことが確認されました。

201606居延漢簡

『居延漢簡』(紀元前後)

波磔の由来について、『書の歴史 中国編』(伏見冲敬・著)ではこう述べられています。

(26頁)「隷書の波勢の由来について、私はまだ適解を得ぬが、筆の性能の変化と、執筆法、殊に筆を構える角度に関係なしには考えられない。私は木簡を書く時はわが国で昔、短冊を書くような構えであったため、こうした筆勢をとるようになったのではないかと考えている。

左手に木簡を立ててもち、筆を直角にあて、縦にはしる木目の摩擦に抵抗するように書くことから生まれてきた払い方ではないか――ということですね。

◇◇◇

さて、さらに、行書や草書も前漢時代にはすでに存在していたことが『尹湾簡牘(いんわんかんとく)』などの発見によって確認されています。

201606尹湾簡牘

『尹湾簡牘(いんわんかんとく)』(紀元前後)

このように、西暦紀元前後にはさまざまな書体が出現しています。しかし――楷書の登場までには、まだ数百年を待たねばなりません。

古くは、隷書からただちに楷書が生まれ、楷書がくずれて行書、さらに草書が生まれたものと考えられていました。しかしこれが事実でないことは現在、完全に論証されているということです。

私もペン習字を始めてからそれを知り、ちょっと驚きました(^_^;

次回は、漢代の隷書をみます。

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きょうの自運

20160630ペン自運「ジューベール」

硬筆書写検定の解答用紙(コピー)に書いています。

※ジョセフ・ジューベール 18~19世紀フランスの哲学者・随筆家

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小テスト解答

(問題1) 

  1. 書譜 ―― C 孫過庭
  2. 粘葉本和漢朗詠集 ―― B 藤原行成
  3. 寸松庵色紙 ―― D 紀貫之

(問題2) 

  1. (   X    )   こちらを参照
  2. (   X  )     X 最澄 → ○ 橘逸勢(たちばなのはやなり)
  3. (   ○  )

書道史を学ぶ 9 秦の始皇帝の文字統一

小テスト

すべて硬筆書写検定1級・準1級で実際に出題された問題です。

(問題1)上段の作品の筆者を下段から選んでください。

1 雁頭聖教序   2 十七帖      3 九成宮禮泉銘

A 王羲之  B 唐太宗  C 褚遂良  D 欧陽詢

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 千字文とは千字の異なった文字を集め、四言の韻文としてまとめたものである。(   )

2 『真草千字文』は随代の智永の書いたものといわれ、草書で書かれた千字文である。(   )

3 『高野切』は違う書風によって書かれ、「第一種、第二種、第三種」に分類されている。(   )

正解は最後に掲載します。

◆◆◆◆◆

前回は殷代の甲骨文と、殷周代の金文をみました。今回は、続く東周(春秋戦国)時代、そして中国最初の統一王朝である秦の時代をみていきます。

紀元前770年、周王朝は異民族の侵入を受けて都を鎬京(こうけい)から東方の洛陽に遷します。以後を東周時代とよびます。周王朝の権威がまだ保たれていた前半を、歴史書『春秋』に書かれた時代ということで、春秋時代とよんでいます。

遷都後もしばらくは周王朝の権威は保たれましたが、国力の衰えとともにそれも失墜していきます。後半の時代には諸侯(周王から与えられた封土を統治した臣下たち)のうち力のある者は「国王」を称するようになり、群雄が覇を競いあう時代になります。この時代について書かれた『戦国策』にちなんで戦国時代とよばれています。

201605戦国七雄

群雄の中で最強国としてのしあがってきたのは「(しん)」でした。

前249年、秦の荘襄王はついに東周を滅ぼします。前247年、その息子の政(せい)が秦王となり、前221年までに他国をことごとく平定し、天下を統一します。550年間にわたる長い戦乱の時代にようやく終止符が打たれました。

◇◇◇

東周時代の文字資料を一つ、みておきます。

中国最古の石刻文字  石鼓文(大篆)

201605石鼓

写真は石鼓(せっこ)と呼ばれるもので、北京の故宮博物院に所蔵されています。造られた目的ははっきりしていないそうですが、胴に刻まれた文字(石鼓文)は現存する中国最古の石刻文字として知られています。天下統一以前の秦で前374年頃に造られたものと考えられています。

201605石鼓文

石鼓文(拓本)

石鼓文は大篆(だいてん)という書体で書かれており、秦が天下統一後に制定する小篆(しょうてん)―篆書の標準体―の母体になったものといわれます。

内容は王の狩猟の様子を伝えるものが多いということです。字形は正方形に近く、大きさは一辺が4~5センチとかなり巨大化しており、広く読まれることを目的としていたことがうかがえます。

◇◇◇

諸王国を平定し天下を統一した秦王・政は、それまでの王を超越した最高の権力者として「皇帝」を称するようになります。最初の皇帝という意味で、始皇帝とよばれています。

始皇帝の文字統一

始皇帝は天下を統治するために、それまで国によってまちまちだった文字の書体を整理し、簡略化した篆書(小篆)を創りました。

201605秦の漢字統一

小篆はそれまでの文字に比べて筆画が単純で、字形は引き締まって厳格な面持ちがあります。現在でも印章の文字などに使われる篆書体の原型となりました。

201605パスポートや紙幣の篆書

パスポートや紙幣に使われている篆書体

瑯邪台刻石と泰山刻石(小篆)

始皇帝は前221年に天下を統一すると、その翌年から地方を巡幸し、自らの功績を称えるための記念碑を各地に建てさせました。これらの石碑はすでにほとんど失われ、現在は『瑯邪台刻石(ろうやだいこくせき)』と『泰山刻石(たいざんこくせき)』  の一部が残るのみとなっています。

201605瑯邪台刻石と泰山刻石

左:瑯邪台刻石    右:泰山刻石

石碑はいずれも、行政の最高責任者であった李斯(りし)の書と伝えられています。

『泰山刻石』は現・山東省にある泰山(皇帝即位の儀式が行われた霊山)に建てられたもので、一文字は縦7センチほどで本来は223字あったものが、落雷や火災などで砕け、現在は二個の残石に10字ほどしか残っていないということです。

きょうはこのへんで。それではまた(^^)/

◇◇◇

 殷はどの程度の版図を持っていたかがはっきりしておらず、続く周は封建制で、周王朝は諸侯に各地の支配を認めていました。秦は中国全土(現在の中華人民共和国の6割程度)を初めて直接的に統治した国、ということで「最初の統一王朝」といわれています。

◆◆◆◆◆

小テスト解答

(問題1) 

  1. 雁頭聖教序 ―― C 褚遂良
  2. 十七帖 ―― A 王羲之
  3. 九成宮禮泉銘 ―― D 欧陽詢

(問題2) 

  1. (   ○  )
  2. (   X    ) 正しくは「楷書と草書で書かれた千字文」
  3. (   ○  )