書蒼28年6月号 ペン習字

セーラーのデスクペン(旧製品)を使用、インクは「極黒」です。

201606『書蒼』6月号ペン習字

左:お手本  右:形臨(競書提出済)

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『書蒼』は見ていて楽しい競書誌です。写真紹介される上位の作品をみると、段級に関わらず、その人の個性があらわれた作品が多いようです。出品作品それぞれに、その人らしさを感じます。『書蒼』をみていて楽しい感じがするのは、そのためだと思います。

突然どうしてこんなことを言い出したかといいますと、前の団体の競書誌は、見ていてちっとも楽しくないものだったからです(^_^;

写真になっている上位の作品郡を見て、書いた人の個性を感じることはほとんどありませんでした。お手本のコピーがずらりと並んでいるような誌面は味気なく、クローンを大量生産する工場を見ているような気分でした(^_^;

徹底的に手本を真似て書くこと。そこに最も重きを置いた団体でした。先生からはときどきこんなことを言われました。

「もっと徹底的に真似なさい」

お手本を徹底的に真似るというやり方は、クセ字を矯正していくには必要なことです。先生の字をできるかぎり忠実にコピーする。それを何度も何度も繰り返す。そうしているうちに、確かに字は矯正されていきます。

そういう稽古を長年続けた高段者や師範の方々は、当然ながらみな、お手本のように書くということが非常に上手でした。

しかし……、お手本を見て書いた字と、自運の字に大きな落差のある方も少なくなく、唖然とした覚えがあります。

形臨ばかりに重きをおくことの弊害がここに出ているのではないか。背臨や自運の稽古をしないと、ただのコピー屋さんになってしまうのではないか……。

お手本をできるだけ正確にコピーするということが、自分の字を変えるための手段でなく、目的になってしまってはいけないはず。そんな能力を磨くためにペン字を始めたわけではないでしょう。長年ペン字を学んだだけの成果がふだんの字に十分に出ていないのでは、時間と労力をかけた意味がないのではないか?

それが私の抱いた素直な疑問でした。

◇◇◇

そんなわけで――、三段をいただいた頃からだったでしょうか、毎月の課題を一所懸命に形臨したあとは、意識して背臨や自運の稽古を自習としてやるようになりました。

しかし勿論、形臨を軽んずることは今でも決してありません。形臨ではやはり、お手本の形や線をできるかぎり再現することをめざして書いております。

形臨は打ち込み、自運は乱取り

私は高校時代に柔道を続けていたのですが、形臨というのを柔道の稽古にたとえれば――打ち込み稽古のようなものかと思います。、

相手を投げるまでの過程の動作を繰り返すのを「打ち込み」といいますが、この稽古を延々と、嫌になるほどやらされた記憶があります。言葉は悪いですが「バカになって」同じ動きをひたすら繰り返します。習字でいえば形臨(や背臨)にあたるものでしょう。

そうして一つ一つの技の動きを体に十分しみこませてから、乱取り(自由に戦う)の稽古に入ります。これは、習字でいうなら自運ということになるでしょう。

乱取りや試合で打ち込みのようにきれいに技が決まることは(実力にかなり差がない限り)なかなかありません。相手も投げられまいと必死ですから、かっこいい一本というのはなかなか取れるものではないのです。

が、いろいろな技の打ち込み稽古を積んでおくことで、理想的にではないにせよ、まあ「恥ずかしくない戦い方」だけはできるようになります。打ち込み稽古を経ずにいくら乱取りだけやっても、デタラメな自己流の動きしかできず、強くなることはできません。

といって、打ち込み稽古だけいくらやっても、自由に組み合う乱取りをたくさんしなければ、実戦(試合)で十分に戦うことはできません。

強くなるためにはどちらも必須の稽古だということですね。

習字で言えば、形臨(も背臨)も自運の稽古も、等しく一所懸命にやらないと、本当に強くは(上手には)なれない――というお話になるだろうと思います。

――習字の稽古をしていたら、必死で柔道に打ち込んでいた頃のことを思い出しました。あの頃のように精進を続けねば!(^_^;

それではまた(^^)/