書道史を学ぶ 3 書聖 王羲之(1) 蘭亭序

まず復習テストに挑戦してみてください(^^)

これらはすべて実際に硬筆書写検定1級・準1級で出題された問題です。一問を除き、前回の内容が頭に入っていれば答えられる問題ばかりです。

(問題1)上段の作品の筆者名を下段から選んでください。

1 九成宮禮泉銘  2 雁頭聖教序  3 孔子廟堂碑  4 蘭亭序

A 虞世南  B 褚遂良 C 欧陽詢  D 顔真卿  E 王羲之

(問題2)次の文章で、正しいと思うものには○、誤っていると思うものにはXをつけてください。

1 『孔子廟堂碑』は、孔子廟が建てられたいきさつが記されているが、作者は不明である。(   )

2 『温泉銘』は、唐の玄宗の作で、王羲之の書を彷彿とさせる見事な行書である。(   )

3 虞世南、欧陽詢、褚遂良の「初唐の三大家」に太宗皇帝を加えて、「唐の四大家」と呼んでいる。(   )

過去問を見ていくと、唐の時代に関する問題の出題率はすこぶる高く、ほとんど必ず一問は出ているようです。書道史上、非常に重要な時代ということですね。

正解は最後に掲載します。

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後漢滅亡(220年)の後、229年までに魏・蜀・呉が興り、天下が三分される三国時代が始まります。

三国時代の末期、魏の実権を掌握した晋王・司馬氏は、蜀を滅ぼしたのちに魏帝から帝位を譲り受け、国名をと改めます。

晋はさらに呉に出兵、これを滅ぼし(280年)、60年ぶりに天下を統一します。

しかし天下統一後の晋では王族が血なまぐさい権力闘争、内乱を繰り返し(八王の乱)、国力が衰退していきます。

これを機とみた北方の五つの民族(いわゆる「五胡」)に晋は攻め込まれます。そして、五族の中でもっとも力のあった匈奴(きょうど)によって晋はついに滅亡に追いやられます(316年)。

滅亡直前、晋の王族、琅邪王(ろうやおう)の司馬睿(しばえい)という人は、門閥郎党を引き連れ揚子江をわたり、滅亡した呉の首都であった建業(現・南京)に避難、この地を「建康」と改め都とし、晋を再興します。洛陽を首都としていた元の晋(西晋)と区別して、こちらは東晋と呼ばれます。

こうして晋は再建を果たしましたが、北方の版図は諸民族に奪われ、そこではいくつもの国が分立興亡しました。この時代を「五胡十六国時代」といいますが、王羲之を生み芸術としての書が開花した時代ということで、書道史としては「東晋時代」として部を立てるのが慣例になっています。

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さて、晋の王族、それも超一流の名族の中に、王曠(おうこう)という人がいました。司馬睿の南下はこの人の提唱によるものだったともいわれています。

王曠は、都・洛陽が陥落していく中で匈奴に反撃を試みましたが、強力な匈奴軍には太刀打ちならず敗戦、そのまま行方不明となってしまいます。降伏し捕虜になったのでは、と噂されます。

この王曠さんに息子がいました。超一流の名族・王氏のお坊ちゃまとして一目置かれながらも、父が敵に降伏したという噂から、人々から冷たい視線を向けられることもあったようです。

さて、ようやく主人公の登場であります(^^) 

この息子さんこそ、のちに書聖と呼ばれることになる、王羲之(おうぎし)その人であります。

201604王羲之肖像画

王羲之・肖像画

幼くして父と離別し母と兄の手で育てられた王羲之は、成人後、朝廷内で官僚として働き始めます。見識が深く高貴なその人柄を慕う人も多く、国家の重要な人材として評判を高めていきます。

ただ、王羲之自身は中央政府の席を好まず、地方官吏になることをずっと望んでいました。

永和七年(351年)、49歳になった王羲之は会稽(現・浙江省紹興市)の内史(地方長官)となり、右軍(左・中・右の三軍の一)将軍(※)の肩書きを得ます。会稽は江南の風光明媚な別荘地で、王羲之はこの地に深い愛着を示したといいます。

※ ここから王羲之は「王右軍」あるいは単に「右軍」と呼ばれることもあります。

201604浙江省風景

王羲之の愛した会稽(現・浙江省紹興市)の現在の風景

201605東晋地図

晋(西晋)の都であった洛陽と、東晋の都・建康(現・南京)はこんな位置関係になります。王羲之は琅邪(ろうや)で生まれ、建康で育ちました。成人後は建康・武昌・臨川・会稽で官僚生活を送っています。

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傑作『蘭亭序』の誕生

永和九年(353)暮春(3月)の初め、王羲之は会稽群山陰県(現・浙江省紹興市)の蘭亭(らんてい)に名士41人を招いて曲水(きょくすい)の宴を催します。

201604曲水の宴

蘭亭曲水図

曲水の宴 曲水の畔に陣取り、せせらぎの上流で杯を浮かべる。杯が自分の前に流れ着くまでに詩を詠み、杯の酒を飲む。詩ができなければ罰として大きな杯で酒を飲ませる――という雅宴。日本でも宮廷の儀式として行われるようになりました。

王羲之は、この詩会でできあがった詩集の序文を揮毫しました。これが、王羲之自身も認める最高傑作『蘭亭序』(らんていじょ)であります。

王羲之の真蹟は現存しない

私たちが現在みることのできる『蘭亭序』はすべて「拓本」(たくほん)というもので、石に彫りつけた字に紙をあてて摺り取ったものです。字そのものも、王羲之その人の肉筆を写したものではありません。

『蘭亭序』のみならず、王羲之自身の書いた書、真蹟は戦乱などですべて消失しており、いっさい現存していません。王羲之の書として伝えられているものは、すべてが模写あるいは複製されたものです。

ほんものの『蘭亭序』は唐の太宗皇帝が所蔵していましたが、太宗はこの作品を酷愛するあまり、臨終の際に副葬を命じてしまったのでした。そのためこの最高傑作はこの世から消えてしまいました。

太宗は生前、欧陽詢や褚遂良、虞世南らに王羲之直筆の『蘭亭序』をときどき臨書させていました。現在残っているのはこの臨書の方です。いろいろな人が書いているので、当然ながらみな少しずつ字が違っています。

ここでは、いちど消失したが定武という場所で発見されたということで『定武本』と呼ばれる欧陽詢・臨をご紹介しておきます。

201605『蘭亭序』定武本

『定武本蘭亭序』(欧陽詢・臨)

太宗が多くの書家に臨書させたもののうち、欧陽詢のものがいちばん真に迫っていたので、これを石に彫らせたといいます。それがこの刻本で、昔からいちばん重んじられているということです。

28行328字の『蘭亭序』には、いたるところに加筆や修正、上書きなど、推敲の跡があります。その後、王羲之は何度も書き直したというのですが、宴に興じて書いたときの草稿以上には書けず、これが王羲之自身の認める最高傑作になりました。

次回は、王羲之の他の行書作品についてお伝えします。

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復習テスト解答

(問題1) 

  1. 九成宮禮泉銘 ―― C 欧陽詢
  2. 雁頭聖教序 ―― B 褚遂良
  3. 孔子廟堂碑 ―― A 虞世南
  4. 蘭亭序 ―― E 王羲之

(問題2) 

  1. ( X ) 筆者は虞世南
  2. ( X ) X 玄宗 → ○ 太宗 ※玄宗(げんそう)は第九代
  3. ( X ) X 太宗皇帝 → ○ 顔真卿

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それではまた(^^)/