古筆をまなぶ 9 高野切第三種 967 ひかりなき(2)

きのうの詞書に続き、967の歌をよんでいきます。

高野切201601-2まなぶ967-2手本と形臨

左:お手本(120%拡大複写)  右:形臨

よみ人は清原深養父(きよはらのふかやぶ)。和歌の名人であり、あの清少納言の曾祖父にあたる人物です。

下級官吏として栄耀栄華とも没落の悲哀とも縁のない自身の境遇をおもい、どんな歌を詠んでいるのでしょうか。

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今回は未習の仮名はありません。一首まるごと問題なく読めた方も多いのではないでしょうか。

では、一気にいきましょう(^^)

高野切201601-2まなぶ967-2-1

りなき多尓ゝはゝるなれ

(ひかりなきたににははるもよそなれは)

高野切201601-2まなぶ967-2-2

さきてとくちるのおひもなし

(さきてとくちるものおもひもなし)

「无」を字母として「mo」と読む変体仮名が、きょうも出てきました。典型的な形ではなく、『高野切』や『粘葉本和漢朗詠集』以外の古筆切にはあまり出てこない形のようです。

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ひかりなきたににははるもよそなれは

さきてとくちるものおもひもなし

漢字仮名交じりにし、必要に応じ濁点をつけます。

光なき 谷には春も よそなれば

咲きてとく散る もの思ひもなし

(意味)

光の届かない谷間には春もよそごとなので

花が咲いたかと思うとすぐに散ってしまうのを心配する必要もない

高級貴族の権勢の浮沈という生臭い話題を、花の命の短さにたとえて優雅に詠いこんでいます。

これを、下級官吏にすぎない我が身の境遇を自ら慰めている――と解説している本もあるのですが、果たして当たっているでしょうか。

作者は立場こそ下級貴族ですが、歌人としては相当な成功者ですよね。負け惜しみのような歌をうたう必要などさらさらない立場だと思うのです。やはり、高級貴族の権勢の浮沈をみて、そんな世界とは無縁でいられることを安堵する気持ちでよんでいる――ように私には思えます。

ちなみに作者は生没年不明ですが、生年は9世紀の半ばから後半あたりと推測されているようです。

とすると、あの菅原道真公と同時代を生きた人ということになります。もしかすると、道真公が太宰府に左遷され、失意のうちに薨去(こうきょ)せられた事件を念頭に置いてよまれた歌なのかもしれませんね。

おつかれさまでした。それではまた(^^)/