古筆をまなぶ 8 高野切第三種 967 ひかりなき(1)詞書

『書蒼』かな部門、初段~四段は高野切第三種の臨書課題になっています。

2月号課題の古今和歌集967番には詞書(ことばがき)――作歌の経緯・事情などを述べた前文――が添えられています。この部分は臨書課題にはなっていませんが、合わせて勉強しておきたいと思います。

高野切201601-2まなぶ967手本と形臨

左:お手本(120%拡大複写)  右:形臨

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新出の変体仮名はほとんどありません。古筆関係の投稿を最初から読んでいただけている方なら、ほとんど読めてしまうのではないでしょうか。

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高野切201601-2まなぶ967-1-1

「となりけるひとの」(ときなりけるひとの)

「る」は背中をほとんどくぼませないような書き方になっていますが、別の字と誤読しそうな形でもなく、高野切第三種の「る」を見慣れた目には問題なく読めるのではないかと思います。

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高野切201601-2まなぶ967-1-2

可尓ときくなりて」(にはかにときなくなりて)

三字目、「可」が読みにくいかもしれません。「可」は丁寧に書かれると一画目がテンのように書かれますが、このテンのような線は連綿線と一体化してしまったり、あるいはこの例のように完全に省略されてしまうことがある、というより、そういうパターンがとても多いです。

上の例は典型的な字形とはだいぶ違っていますが、こういうものも、指先でなぞり書きして筆の動きを追ってみると、その筆の動きから何の字か見当がつくことがあります。

ここでも、なぞり書きしてみて、「は」から続く連綿線が着地してすぐにクルリと右回りする、その動きがつかめれば「可」とわかります。

この「可」は、見るだけでは下から二字目の「り」と同じように見えてしまうかもしれません。しかし書いてみれば、「可」の方は着地後に右転回しようとする動きがあるのに対し、「り」の方は着地後すなおに跳ね返っているだけの動きであることがわかります。

書いてみれば全部わかるわけでもないでしょうが、やはり、書けば読む力も伸びる――これは間違いない気がします(^_^)

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高野切201601-2まなぶ967-1-3

「なくをみて」(なけくをみて)

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高野切201601-2まなぶ967-1-4

「みつなけき毛那く」(みつからのなけきもなく)

この「可」は、ほとんど右にクルリの「気持ちだけ」、のように見えますね(笑)。でもこの形で書いて誤読する可能性のある別の字もないし、「みつから(自ら)」という単語だろうから「可」だろう、と見当がつくでしょう。

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高野切201601-2まなぶ967-1-5

「よろこひもきことを」(よろこひもなきことを)

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高野切201601-2まなぶ967-1-6

「おひてよめる」(おもひてよめる)

未習の変体仮名が出てきました。字母は「无」で読みは「mo」です。「无」は「ん」の字母でもありますね。

かな字典をみてみます。

高野切201601-2まなぶ967-1かな字典「无」

『かな字典』(二玄社)

かな字典、またいくつか法帖を見てみましたが、「无」をこの形に崩している例は、『高野切』と『粘葉本和漢朗詠集』のほかには見当たらないようです。

『変体がな実用字典(高野切第三種』(川村滋子)という本で、第三種でのそれぞれの仮名の使用頻度がわかるのですが、それによれば――、

も 38回

毛 35回

无 10回

母  1回

多くはないですが、そこそこは出てくるんですね。

『高野切』、『粘葉本和漢朗詠集』にほとんど特有の形、として覚えておくことにします。

なお、「り」にも似ていますが、始筆のタテ線が「り」よりも長め、かつ深めに下りていくところ、また、いくらか右に傾きを持っているところなどが違います。

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高野切201601-2まなぶ967-1-7

「きよはらのふ可や不」(きよはらのふかやふ)

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全体を再掲し、通読してみます。

高野切201601-2まなぶ967手本

なりけるひとの可尓とき

くなりてな介くをみてみつ

なけき毛那くよろこひもきこ

とをおひてよめる

きよはらのふ

変体仮名を今の仮名に置き換え、言葉の切れ目がわかりやすいように分かち書きをします。また、現代仮名遣いにし、必要に応じて濁点をつけます。

ときなりけるひとの にわかに 

ときなくなりて なげくをみて みずからの

なげきもなく よろこびもなきことを

おもいてよめる

きよはらのふかやぶ

漢字仮名交じりにします。

時なりける人の にはかに 

時なくなりて 歎くを見て 自らの

嘆きもなく 喜びもなきことを

思いてよめる

清原深養父

(意味)

時めいていた人が急に栄え(権勢)を失って歎くのを見て、自分には特に悲嘆すべきことも喜ぶべきこともないことを思って読んだ(歌)。

清原深養父と聞けば、百人一首三十六番の――、

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ

を思い出す方も多いと思います。

下級官僚である自身には、高級貴族の栄耀栄華とも無縁だが、没落して悲嘆に暮れることとも無縁であると諦観しています。

ちなみに、この方はあの清少納言の曾祖父なのですが、それとは別に自分も歌人として当時すでに名声を得ていたわけですから、「よろこびもな」いというくだりは、謙遜の気持ちで述べられているんだろうと思います。

明日は歌の方を勉強します。

たいへんお疲れさまでした。それではまた(^^)/