古筆をまなぶ 7 高野切第三種 942 よのなかは

歌番号942を勉強します。

高野切201601-1まなぶ942手本と形臨

左:お手本(1.3倍に拡大複写) 右:形臨

1.3倍に拡大複写したものをお手本に臨書しました。スキャナーがA4までしか対応していないため、お手本の方は下が少し切れてしまいました<(_ _)>

では、読んでいきます。

◇◇◇

高野切20161-1まなぶ942-1

那可は」(よのなかは)

最初の「よ」、字母「与」のイメージを強く残した形で書かれています。

実は、このような、まだひらがなとしての簡略化がさほど進んでいない段階の字を主に集めた字典がありまして――、

高野切201601-1まなぶ 草仮名字典「与」

『草仮名字典』関口研二・著

「草仮名字典」といいます。

「草仮名」とは?

奈良時代(8世紀)、まだ固有の文字のなかった日本では、日本語の音を表記するのに漢字を用いていました。こんなふうに。

高野切201601-1万葉仮名

「熟田津に船乗りせむと月待てば」

額田王(ぬかたのおおきみ)の有名な歌の一部です。このように、日本語を表記するために使った漢字を「万葉仮名」と呼びます。7世紀頃には漢字のこのような使い方が成立していたと考えられています。

この万葉仮名(別名「男手」)を草書体に崩していき、さらにそれを簡略化していくことでひらがなが生まれてくるわけですが、まだ草書の範囲にあると考えられるものを「」、形の簡略化=「仮名」化が進んだものを「女手」と呼びます。

男手   →   草   →   女手

一般に「草仮名」という場合、この「草」と「女手」両方を含んでいます。

男手   →   草仮名(草、女手)

とこまでが「草」で、どこからが「女手」か?はっきりした境界線は設定しようがないでしょうし、(学術論文などは別として)どっちだと決めなければならない場面などほとんど思いつきませんが――、

高野切20161-1まなぶ942「女手」と「草」

このように「よ」の二つの形をみたときに、

――左は「女手」、右は「草」と言っていいんじゃないかな。

なんて、かっこつけて言ってみることはできるかもしれません(^^)

◇◇◇

さて、今回はほかに新出の仮名はありません。一気に読んでいきます。

高野切20161-1まなぶ942-2

「ゆめゝか」(ゆめかうつつか)

高野切20161-1まなぶ942-3

「うつゝと」(うつつとも)

高野切20161-1まなぶ942-4

高野切20161-1まなぶ942-5

「ゆめとしら」(ゆめともしらす)

高野切20161-1まなぶ942-6

「ありてなけれ」(ありてなけれは)

◇◇◇

通読してみます。

高野切201601-1まなぶ942手本

那可は ゆめゝか うつゝと ゆめ

しら ありてなけれ

変体仮名をひらがなに改め、言葉の切れ目がわかりやすいように分かち書きをし、必要に応じ濁点をつけます。

よのなかは ゆめかうつつか うつつとも

ゆめともしらず ありてなければ

漢字仮名交じりにします。

世の中は 夢かうつつか うつつとも

夢とも知らず 有りて無ければ

(意味)

この世の中は、夢なのか現実なのか。現実とも夢とも、私にはわからない。それは有ると同時に無いのだから。

うーむ。深い……。

言うまでもなく、この歌の勘所は「ありてなければ」ですね。

この歌をよんで私は、方丈記の「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」の一節を思い浮かべました。般若心経の「色即是空、空即是色」が頭に浮かぶという方もおられるでしょう。

定まって存在し続けるものなどこの世に一つもありはしない。すべては万物流転の中の一瞬の姿にすぎない――と。

うつろいゆくもののはかなさを慈しむ。その心を詠う――これは和歌の、特に古今和歌集の中心テーマといえましょう。

◇◇◇

うーむ。二度とやってこない「今」を大切に生きねば!

うひょ~、かっこいいこと言ってしまった(^^;

それではまた~(^^)/